カメさんがびっくりした、日本のシンドラーと自分の関係
 小さいころ、確かわが家の本棚に数冊の古ぼけたロシア語の本が置いてあったのを覚えている。
焦げ茶色の地にはげかかった金色の独特のロシア文字がうかんでいた。しかし、どんな理由でそんな本がわが家にあったのか詳しく聞かずに40数年が経過し、父もすでにこの世になく、ドクトルカメさんは知らなかった。

 ある日、岐阜の実家へ帰ったとき、道の途中に“人道の丘”と書いた道標があり、これはいったい何だろうと思いながら車を運転して通りすぎていった。実家で母親と世間話をしていたとき、ふとこの道標のことが思い浮かび、「そういえば道の途中で人道の丘と書いてあるところがあったがあれは一体全体どんな丘なんだい」とたずねてみた。
すると、あれは町出身の杉原千畝という人の記念碑で、最近、町内の小高い山の上に造られたものだという。そして、在日イスラエル大使や多くのユダヤ人らが出席して除幕式が行われたのだという。

 そういえば数年前に、NHKで、第2次大戦中、リトアニアでナチスの迫害を恐れてアメリカへ渡ろうと日本大使館におしかけた大勢のユダヤ人に対して、日本の外務省の命令に反して日本を経由してアメリカへ行けるビザを発行し、数千人の命を助けた日本の外交官がいたというドキュメンタリーが放送されたことがあった。いわゆる日本のシンドラーの物語である。
そして杉原氏はそのあと命令違反で外務省をくびになりさみしい晩年を過ごされたが、最近、外務省から名誉回復の手続きがなされたという番組であった。
ドクトルカメさんもたまたまこの番組をみていて、日本にもこんな素晴らしい人がいたんだとひどく感激したことを昨日のように覚えていた。

 母親の話はさらに、実は杉原氏は父親のおじさんにあたるひとで、戦前に独学でロシア語を学び、外務省の職員になったのだというところに発展した。そしてドクトルカメさんの父は国内になかなか職もなかったことからそのおじさんを頼って、当時おじさんが勤務していた満州国に渡ったのだという。
しかし、残念ながら父が渡満したころには杉原氏はすでにリトアニアに転勤となり、満州にはいなかった。それでも、父も外交官になる夢を捨て切れず満州でロシア語を勉強していたのだという。

この話でなぜわが家の本棚に古くさいロシア語の本が置いてあるのかがわかったのであった。

■カメさんががっかりした、ユダヤ人と自分の無関係
 メラニーとそのボーイフレンドはユダヤ人であった。
彼らは牛、豚の肉はだめでとり肉しか食べず、おまけにメラニーはイカ、海老はアレルギーが出るので食べられず、昼飯に浅草の天ぷらかすき焼きでもと考えていたドクトルカメさんは、食べるものの選択に窮し、たまたま飛び込んだのは銀座の寿司屋であった。

 寿司はアメリカでも日本で考えられている以上にポピュラーで、彼らはナイスチョイスだといって喜んでくれた。ツナが好物のようで鉄火やまぐろの握りばかり食べていたが、ドクトルカメさんは彼らがユダヤ人だと知っていたので、ビールをすすめながらこの杉原氏の話をしたところ、彼はえらいことをしたという通り一辺の反応のみで話はそれ以上発展しなかった。
 ひょっとしてニューヨーク在住の彼らのおじいさん、おばあさん、あるいは父母それとも親戚のだれかがリトアニアから逃れてきた人達の一人かもしれないとかってに空想をふくらませていたドクトルカメさんはいささかがっかりした日でもあった。