このエッセイは院長がアメリカ時代の思い出をかってに書きためておいたものです。



こころはHeartにありや その2

■こころと脳

こころは頭にではなく胸にあるものと誰しも信じている。喜びも悲しみも胸にしまっておき、胸が張り裂け、胸が痛む。頭が痛むのは頭痛のみである。英語でもHeartはcenter of the feelingsである。Kind heartでありwarm heartである。wot heartではない。
脳は心臓を支配しているか。解剖学ではただの血液のポンプにすぎぬ心の臓がこころをもっているとは医学を知らぬしろうとの戯言にすぎぬか。陰陽五行は解体新書によって明らかに否定されたが漢方薬は中国3千年の歴史が何事もなく信じられていて今日の隆盛を勝ち得ている。ならば心臓自身が脳をコントロールすることもありえると思うのは天衣無縫の考えか。

■訪

アメリカ東部の5月は新緑と花がいっせいにおとずれ、足取りも軽やかになる。4月ではまだ冷たい風も肌になごんで優しく、にっくき花粉症さえなければ1年のうちの最高の季節である。気の早い白人は紫外線が皮膚に悪いと知ってか知らずか水着で日光浴としゃれている。

ビルが住んでいた家の前には芝生の庭が広がりプラタナスの大きな樹が2本そびえ立っていた。壁の白いペンキはところどころ剥がれかかっていたが、遠くはなれて見れば緑の木立のなかに白い瀟洒な家が際立っていた。恵子はビルの母親と話をしながらひとつひとつ思い当たることがあるのに十分気がついていた。もちろん考えかた、人間としての存在そものもは従来の恵子そのものであるが、なんといったらいいのだろうか、感情的なものがいままでと違ってきているような気がするのである。医学的にいえば脳の旧皮質に支配されていると考えられる行動がである。もちろん恵子も医者のはしくれである。心臓移植で人の行動パターンが影響を受けたり、変わるなどという奇想天外な、非科学的、非医学的なことがおいそれと信じられる訳はない。
恵子はビルの母親に丁重に礼をいって別れたあと、ひとりでセーラムの街を物思いにふけりながら散歩していた。こうして元気でドナーの住んでいた外国の街を訪れることができるとは1年前には想像もできないことであった。いかにも複雑な思いであった。

■セーラムと日本

ここセーラムは港町である。大西洋の潮の香がする。古くは捕鯨基地としてにぎわっていた。北太西洋の海に木造船で乗り出したここの住民たちは捕鯨を糧として暮らしていた。当時、それは死と隣り合わせであることを意味していた。他方、船主たちは捕鯨成金であった。そのせいで街にはあちこちに石畳の歩道や石造りの古い立派な建物がまだ残っていた。
散歩の途中、恵子は博物館を見つけた。ピーボディー博物館である。ここはセーラムの捕鯨の歴史が分かるようになっているが、それ以外に多くの中国や日本の美術品、工芸品、陶器から200年前の民衆の使っていた日常道具までが展示してあるのである。なぜこんな田舎町の博物館にという疑問はすぐ解けた。この町はあの大森貝塚を発見したモース博士の故郷であって、博士が日本で買い求めた数々の美術品をこの博物館に寄付したのであった。江戸時代の着物、羽織、刀、鎧、篭から、火ばち、羽子板、たこ、煙管、ぞうりにいたるまで展示してあった。さらにはどうやって運んできたのだろうと思われる2mを超す石の灯篭まであるのに唖然とさせられる。恵子はこの町がまんざら日本と縁がないわけではないことを知って感慨深いものがあった。

■心臓

帰りの飛行機のなかで久しぶりにみる日本の新聞をひろげていて、興味深い医学記事があるのに恵子は気がついた。それは日本の学者が心臓からナトリウムホルモンという利尿ホルモンが出ていてそれが実は血圧を左右していることを世界ではじめて発見したというものであった。心臓はただのポンプだけではないのかもしれない。




こころはHeartにありや

■心臓移植

麻酔科医の恵子は自分の心臓が拡張型心筋症に侵されているのを十分に知っていた。父親もこの病気で57才の若さで死んでいた。医大卒業後2年目までは何とか仕事にも研究にも耐えることができたが、それ以後は体調がすぐれない日々を過ごすことが多くなり、自分に残された時間が多くないという不安を絶えず感じていた。心筋症は心筋の変性により十分に血液を全身に送り出すことができなくなる進行性の病気であった。このため、やがては歩くことさえままならなくなり。ベッドにしばりつけられ死を待つ生活を覚悟せねばならない。
そんなある日、恵子は医大の麻酔科 杉木教授の紹介でアメリカの病院で心臓手術を受けることを勧められ渡米したのであった。幸運なことに恵子とHLAの型が合うドナーが渡米3月後に現れ、無事、心臓移植の手術を受けることができた。そして半年後には日本に帰国することができた。もちろん、手放しの喜びではない。一生、免疫抑制剤を飲みつづけなければならなかったし、そうしていてもいつ拒絶反応が出てくるか分からない不安はあった。しかし、近年、日本の製薬会社が開発したFK506などの優れた免疫抑制剤が市販されるようになってきたため、拒絶反応の発現を10%程度にまで抑えることができるようになってきていた。しかし、反面、免疫を抑制する影響で癌になる確立も確実に高くなるのである。

無事、アメリカから帰国した恵子は再び、麻酔科医として病院で働くことができるようになった。ところが、一緒に手術室で働いているナースたちが恵子の立ち振る舞いが以前と何となく違っているように感じだしたのであった。それはなんといったらいいだろう、一言で表現すれば恵子が男っぽくなったような印象を皆が受けるようになったことである。
がに股でスタスタ歩く、態度がなんとなく横柄である、手持ちぶさたなときはバスケットのシュートのまねをする、ナースたちをみる目つきが以前と違っていやらしくなっているのである。それでもみんな、主治医も含めておそらくそれは免疫抑制剤を飲み続けているせいだと好意的に信じていた。
しかし、恵子自身も何となく以前、すなわち心臓移植を受ける前との違いに不安を抱くようになっていた。前は耳鼻科や眼科の女医たちと違ってビールなんかは宴会があるとき以外を除いて自分から進んで飲むようなことはなかったし、ピザやとりの空揚げをコーラとともに食べるようなこともなかった。音楽もクラッシックよりロックやジャズを聞くと自然に体がリズムをとるような感じになっていた。
もしやと思い、恵子は5月の連休を利用して再びアメリカへ飛んだ。目的はドナーが果たして誰だったか探し当てることであった。

■ドナーと自分

恵子は手術を受けたマサチューセッツ総合病院の心臓移植を担当するコーディネーターに面会し、ドナーが誰であったのか教えてくれるよう必死で頼んだのだった。もちろん、ドナーが誰であったかは教えてはいけないことになっていたが、コーディネーターは日本からわざわざ飛んできた恵子の迫力に根負けして、ドナーは交通事故で死んだ18才の白人男性でイニシャルがWFであったことを漏らしてくれた。それだけ分かれば探し出すのは難しくないと彼女は考えた。さっそく、恵子はボストン市立図書館に足を運び、地元の有力新聞ボストングローブ市の手術当日の記事に目を走らせた。やはり、あった。当日、ビルという白人青年がボストン近郊の町セーラムでスポーツカーを走らせていて事故を起こし、近くの病院に運ばれていた。恵子はレンタカーを借り、高速道路を北に向かって車を走らせた。
セーラムは古くは魔女狩りで有名な町で今でも魔女の館や魔女の地下牢博物館などがあり、アメリカ東部を訪れた観光客をひきつけていた。セーラムに着いた恵子は早速市役所に向かい、イニシャルWFの青年の家を聞いてみた。気のいい市役所のおばさんは分厚い眼鏡をかけて住民台帳を見ながら青年の家を見つけ、自分で案内してその家まで連れていってくれた。
家には青年の母親が一人で住んでおり、恵子を歓迎してくれた。そして、死んだ息子の自慢話をはじめた。
身長は190cmで高校のバスケットボール部に所属していたビルはまたピザとコークが大好物でガールフレンドを乗せていつもスポーツカーを乗り回していたということであった。
恵子は背中から冷たい汗が幾筋も流れ落ちるのを禁じえなかった。






水の話

■水
阪神大震災でなりより困ったのは水が使えないことであったという。飲み水だけでなくトイレも水がなければ流せないじゃないか。ラーメンも作れない。普段、あたりまえにして使っている水道の水だが、ありがたさが身にしみる。
ところで今は地震の話ばかりになっているが、思い起こせば去年の夏は大変な水不足で、夏中、水の話ばかりであったような気がする。幸いなことにドクトルカメさんの住んでいる富山県は一部をのぞいていつもの年のように水はふんだんに使えた。冬にたくさん雪が降るおかげである。ありがたいことであった。いっそ、立山の雪解け水を高速道路を使ってパイプラインで全国に分けてあげたい気持ちであった。

■日本人と水
ボストンでも水はふんだんに使え、かつ、きれいそうに見えたのでドクトルカメさんも日本の習慣で水道の水をそのまま飲んでいたが、渡米1月ほどしたある日、ボストングローブ紙を見ていて、ボストンのみならず、マサチューセッツ州の水道水の鉛の含有が、以上に高いのである。びっくりして知人に聞いたところ、そのことはみんな知っていて水道の水はだれも飲用にはしないという話であった。何のことはない、ドクトルカメさんだけ知らないのであった。
200年前に作った水道管は鉛管であったのだ。大人はまだしも子どもにはいかんせん都合が悪い。それでみんなミネラルウォーターを使うのであった。それ以来、スーパーマーケットへ行って、3.6リットル入りのものを買ってくるはめになった。ポリ容器1個90円ほどである。安売りの日になると3個200円ぐらいになる。ここで大発見したことは、日本食を作ろうとするとやたら滅多ら水が必要になるということであった。
日本にいるときはあたりまえで気がつかなかったことであった。まず米を洗う、炊く、野菜を湯がく、煮るから湯豆腐、天ぷらのつゆ、インスタントラーメンにいたあるまで日本食は豊富に水がないと作れないのである。水がなくていいのは刺身ぐらいのものである。そーめんなどはどんぶりにいっぱいに入れた水を、中身を食べた後は捨てなければいけなくてもったいなさがつのる。実に日本人の食べるものは水びたしである。まず、水がないとはじまらないのである。

その点、アメリカ人の食事は簡単である。パンを買ってきて、ステーキを焼いて、スパゲッティーを電子レンジでチンして、出来合いのサラダを並べておしまい。水がいるのはコーヒーぐらいなものである。他方、我々日本人は週に2回はスーパーへ買い出しに行かなくてはならない。それも、1回に6個も大きくて重い水の入ったポリ容器を持ち運ぶはめになった。
階段の昇り降りも大変である。手のひらにはポリ袋の紐の食い込んだあとがくっきり残る。こうして台所は水のポリ袋容器で占領されている。そのうち、この水代がけっこうばかにならないのに気がついた。そこで今度は空容器をスーパーへ持っていって水を詰めてくるようになった。スーパーのタンクにはちゃんとこの水には鉛は含まれていませんとお品書きが貼ってあった。ポリ容器1個、25セントで入れることができてかなりの水代の節約になった。
もちろん和食を食べなければこんな苦労は必要ない。しかし、情けないことに長く日本人をしていると3食ともパン食ではのどが渇いて仕方なくなるのである。どうしても1回は和食でないと欲求不満になってしまう。長く住んでいる人達は飲料水会社と契約していて、この3.6リットルの容器が10個程はいる大きなポリ容器を備え付けてもらって、なくなりかけたら配達してもらう方法をとっているようだったが、なかなかきっちり来てくれないと不満を聞くこともあった。こんなに水に苦労すると日本の水道は実にありがたいと思うのであった。

■レストランの水は
ところでアメリカのレストランへ入ると日本と同じようにまずコップに入った水が運ばれてくる。日本にいるときはレストランでだまって水が出てくるのは世界中で日本だけの習慣であるように聞いていたがアメリカでも席につくと無量の水をウエイトレスが運んでくれるのである。しかし、あれは水道の蛇口から出てくる水をそのまま運んでくるのであろうか。それとも、ミネラルウォーターの大きなボトルが店の奥にあってそこから水を出してくれるのであろうか。残念ながら真実を聞きそびれてしまったのである。




春祭り04/01更新

■囃子方
 先日、久しぶりに故郷の岐阜の田舎へ帰り、春祭りを楽しんできました。
故郷のお祭りは、かって木曽川で筏流しが盛んだったころの伝統を今に伝えるもので、合わせると船の形になる大きな3台の山車が主役です。それを大勢の子どもや大人たちが長さ40cm、網もとでは太さ15cmもあろうかという2本の大綱をもってひっぱります。
威勢良く角を曲がるときはなかなか迫力があり、時には曲がりきれずに家の軒先を壊したりすることもめずらしくありません。4本の竹の柱で支えられた不安定な屋根の上ではトビ職の人たちが電話線や電線に山車の屋根がひっかからないよう命がけで監視しています。また、山車の舞台では笛、鼓、太鼓の囃子方が祭囃子を奏でており、ドクトルカメさんの大脳の奥深くに刻み込まれている懐かしい調べがよみがえります。それはまた、お祭のざわついたそして華やいだ雰囲気で気持ちを高揚させていた子どものころの気分を思い起こさせてくれるものであり、ほんとうに心地のよいものでした。また、かって、鼓をやらされ、毎日の練習で親指と人差し指の間が切れて辛い思いをした日々をかいま見させてくれるものでもありました。
主旋律を奏でる笛の連中は、相変わらず楽譜も見ずに場所ごとに決められた曲を間違えずに演奏しており、昔と同じだなーと感心しながら囃子方を眺めていました。
そのとき、ふと、どうしてこういうものはいわゆる聞き伝えでなされて、楽譜のような記録がなにもないのはなぜだろうかという思いが脳裏に浮かんだのです。よく考えて見ますと、日本の伝統文化といわれるものはその多くがいわゆるマニュアルなどではなく、体に覚えさせ、さらにはたたき込ませて伝来のものを守っていくというスタイルをとるものが多いのに気づきました。

■道を極める
道といわれるものの多くは、師匠の振る舞いを見てそれをそのとおりマスターし、さらにその奥にある思想を悟るという神業が要求され、一朝一夕には会得できません。その間、多くのお金をお師匠さんに払い、長い長い時間をかけて頭も薄くなるころ、ようやく免許皆伝になることも少なくありません。
ところが、今日、アメリカでは多くのことがマニュアル化され、その本を読んでその通りにやればだれでもその日からベテランのように立ち振る舞うことができるようになるというスタイルを多くみかけます。しかも、こういう文書化されたものをいつでもだれでもみることができるようになっている場合には、巷から多くの批判批評を仰ぐことができ、それに基づいて次々と改訂版を出していくことができます。したがって前版を踏み台にしてより高い次元に容易にたどり着くことができます。他方、わが日本的システムの場合、その場その場で状況に応じたやり方が要求され、さらには物事を作り上げていく方法はそれぞれの部署であうんの呼吸でなされ、およそシステム化とはよほど遠いように感じます。そして、伝統芸などでは技を見て自分のものにするのがせいいっぱいで、さらにそれを改善してよりよくしていくなどということは至難の技です。また、各流派はその方法が門外不出で公開の場で他からの批判をあびることがないものも少なくありません。
日本的な方法ではどうしても個人の努力、工夫によるところが大きく、手作りのよさは味わえますが、システム化されていないために、その個人がいなくなれば技術が周りに伝わらなくなります。

■ノウハウ
この良い例をアメリカの学会運営で発見しました。
ドクトルカメさんは昨年の春、ニューオリンズで行われたアメリカ形成外科学会に参加しましたが、どうも学会運営のほとんどはすべては学会の事務局が担当し、会長はアイディアとどういう思想で学会を方向づけるかだけ考えればよいというシステムで運営されているように見受けられました。したがって、会長はなにも自分の住んでいる都市で学会を開く必要はなく、寒い時期ならば南の暖かい観光地ででも十分開くことができるわけです。
ひるがえって、日本の学会運営を見てみますと、会長となった教授はさまざまな手段でまずお金を集める必要があり、さらに医局員の多くは学会が来ると決まったその日から医師の仕事とはなんら関係のない学会の準備に忙殺され、貴重な日々を事務方の仕事についやさねばなりません。さらに不幸なことに、苦労して築いた学会運営のノウハウはつぎの大学に引き継がれることなく、廃棄処分にされてしまいます。中心となって運営した人が大学から出てしまえばつぎの学会のときはまた一からはじめなければなりません。そして、つぎの年の学会に指名された大学のかわいそうな下っ端医局員の人々にもまたおなじ運命が待っています。この間に培われたノウハウは文書化されていないので学会の運営方法の進歩も遅遅としたものになりがちです。

こういうことを考えるたび、良い悪いは別にしろ、日本人というのはアメリカ人と比べてホンとに物事をシステム化するのが下手だなーとつくづく思うのです。