このエッセイは院長がアメリカ時代の思い出をかってに書きためておいたものです。
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『ニューヨーク行き』 ■自由の女神計画 夏が過ぎてアメリカの生活にもだいぶ慣れたころ、念願のニューヨーク行を計画した。 自由の女神を見て、つぎにマンハッタンへ行きメトロポリタンミュージアムで印象派をみて、最後にヤオハンで日本食を買いこんでボストンへ帰るというのがスケジュールである。 飛行機で行くのは楽だが空港からマンハッタンまでタクシーに乗るのはぼられそうでいやだったし、家族で飛行機に乗れば200ドルはかかるので、ここは何といっても車であった。 ボストンからニューヨークまでおよそ400km。朝の6時にボストンを出てお昼までにはニューヨークヘ着くだろうという算段であった。 ルート93から95へ入ってProvidence, Newhavenと南下してやがて5時間、お昼前にニューヨークの入り口にたどりつく。 高速道路代は2ドルであった。道路は3車線にもかかわらず渋滞していた。のろのろ走ると道路脇のごみや、放置されたままの自動車などがいやでも目につく。もちろん、そんな自動車はタイヤやハンドルなどめぼしいものはすでに持ち去られてしまっている。 窓から見える高層アパートはガラスは破れ、壁は壊れかけていて、いかにもニューヨークの一面を反映しているといった雰囲気である。常日頃、ニューヨークは怖いところで、町を歩いていてスリにあったとか建物の中にひっぱりこまれて身ぐるみ剥がされたというような話を友達から聞いていたので、車の中にもかかわらず子供たちの表情はすでにこわばっている。 初めての道でこの先どこへ行くのか不安なところもあったが道なりにそのまま走って行くとやがてまわりの景色はやや落ち着いてきて安心する。 やはり、道路のよごれと治安の悪さは正比例するような気がする。 そうこうするうちジョージワシントン大橋という標識が見えてきて方向が間違っていないのを知り安心する。 ■女神の導き 今日の目的は自由の女神を見ることであった。 マンハッタン側から船に乗るのはいやだと女房どのがのたまうのでニュージャージー側から行くことにしてかねてからガイドブックと地図で研究しておいたように左手にマンハッタン島を見ながらジョージワシントン大橋を渡りハドソン川を越えて順調にニュージャージーターンパイクに入った。 ここまでは予定していたとおりであった。 ところがここから途中でリバテイーパークへ行く道に通じるインターチェンジに出なければならないのだが、見逃したのか目指す標識が見当たらない。 ハンドルにしがみつき、道路標識を必死になって仰ぎみながら車を走らせるのだが、高速で走っているとすぐに車線変更できず、また、とっさに標識を理解しなければならず、これがなかなかむつかしい。 どこで高速道路を降りたらいいのかわからない。左手の丘を越えたはるか向こうにはマンハッタンのビル群がかすんでみえる。そろそろ高速道路を降りて海の方へ向かわなければならないはずだ。 ええいままよと適当なところで降りて海の方へ向かって車を走らせるとジャージーシテイーという町に入った。この町はやや場末の港町というにぎわいがあり、大人の雰囲気と同時にどこか危険な香もしている。 一度、歩いてみたいなという気にさせるが、今日は自由の女神を探さねばならない。 地図の上からいけば大体よさそうなところへ来ているはずなのだが、ここから先どっちへ行ったらいいかわからない。もちろん自由の女神はどこにも見えない。 しかたなくこの辺りをグルグル回ったが目指す自由の女神はかけらも見えずやがてそうこうするうちスラム街に迷い込みそうになり、あわててUターンした。 もう今回はあきらめようかという気持ちにほとんどなりかけて北に向かって戻かけたころ突然、夕日に照らされた自由の女神の頭がビルの間からかいま見えたのであった。目標が見えれば何とかなる。 埋立地のようなところをさんざん回ってたどり着いたリバテイーパークからみたマンハッタン島は圧巻であった。ハドソン川をはさんで世界貿易センタービル、パンナムビル、クライスラービルなどの多くの高層ビル群が真っ青な空をバックに目の前にそびえ立っていた。 ビル群をバックに数枚の記念写真をとってから何とか間に合った最終のフェリーに乗り込み、スタッテン島へと向かった。 心地よい秋の風を頬にうけながらフェリーの展望席からあおぎみる女神は苦労してたどりついたせいもあって感動的であった。 |
『ロシア語の本』 ■カメさんがびっくりした、日本のシンドラーと自分の関係 小さいころ、確かわが家の本棚に数冊の古ぼけたロシア語の本が置いてあったのを覚えている。 焦げ茶色の地にはげかかった金色の独特のロシア文字がうかんでいた。しかし、どんな理由でそんな本がわが家にあったのか詳しく聞かずに40数年が経過し、父もすでにこの世になく、ドクトルカメさんは知らなかった。 ある日、岐阜の実家へ帰ったとき、道の途中に“人道の丘”と書いた道標があり、これはいったい何だろうと思いながら車を運転して通りすぎていった。実家で母親と世間話をしていたとき、ふとこの道標のことが思い浮かび、「そういえば道の途中で人道の丘と書いてあるところがあったがあれは一体全体どんな丘なんだい」とたずねてみた。 すると、あれは町出身の杉原千畝という人の記念碑で、最近、町内の小高い山の上に造られたものだという。そして、在日イスラエル大使や多くのユダヤ人らが出席して除幕式が行われたのだという。 そういえば数年前に、NHKで、第2次大戦中、リトアニアでナチスの迫害を恐れてアメリカへ渡ろうと日本大使館におしかけた大勢のユダヤ人に対して、日本の外務省の命令に反して日本を経由してアメリカへ行けるビザを発行し、数千人の命を助けた日本の外交官がいたというドキュメンタリーが放送されたことがあった。いわゆる日本のシンドラーの物語である。 そして杉原氏はそのあと命令違反で外務省をくびになりさみしい晩年を過ごされたが、最近、外務省から名誉回復の手続きがなされたという番組であった。 ドクトルカメさんもたまたまこの番組をみていて、日本にもこんな素晴らしい人がいたんだとひどく感激したことを昨日のように覚えていた。 母親の話はさらに、実は杉原氏は父親のおじさんにあたるひとで、戦前に独学でロシア語を学び、外務省の職員になったのだというところに発展した。そしてドクトルカメさんの父は国内になかなか職もなかったことからそのおじさんを頼って、当時おじさんが勤務していた満州国に渡ったのだという。 しかし、残念ながら父が渡満したころには杉原氏はすでにリトアニアに転勤となり、満州にはいなかった。それでも、父も外交官になる夢を捨て切れず満州でロシア語を勉強していたのだという。 この話でなぜわが家の本棚に古くさいロシア語の本が置いてあるのかがわかったのであった。 ■カメさんががっかりした、ユダヤ人と自分の無関係 メラニーとそのボーイフレンドはユダヤ人であった。 彼らは牛、豚の肉はだめでとり肉しか食べず、おまけにメラニーはイカ、海老はアレルギーが出るので食べられず、昼飯に浅草の天ぷらかすき焼きでもと考えていたドクトルカメさんは、食べるものの選択に窮し、たまたま飛び込んだのは銀座の寿司屋であった。 寿司はアメリカでも日本で考えられている以上にポピュラーで、彼らはナイスチョイスだといって喜んでくれた。ツナが好物のようで鉄火やまぐろの握りばかり食べていたが、ドクトルカメさんは彼らがユダヤ人だと知っていたので、ビールをすすめながらこの杉原氏の話をしたところ、彼はえらいことをしたという通り一辺の反応のみで話はそれ以上発展しなかった。 ひょっとしてニューヨーク在住の彼らのおじいさん、おばあさん、あるいは父母それとも親戚のだれかがリトアニアから逃れてきた人達の一人かもしれないとかってに空想をふくらませていたドクトルカメさんはいささかがっかりした日でもあった。 |
『アメリカの日本料理』 ■すしはアメリカの郷土料理となるか? 日本料理がアメリカでこんなにポピュラーになっているとは日本を出る前は想像もしなかった。 もちろん、その代表はすしである。恐らく、半分以上のアメリカ人はすしを食べた経験があるのではなかろうかとさえ思われるのである。 ボストンの中心部にある日本料理店は日本人ビジネスマンや日本からの観光客もあてにしており、客の日本人の割合も70〜80%である。しかし、およそ、観光客の行きそうもない郊外の小さな町にも日本料理店が確かに存在し、すし、てんぷら、焼き鳥、唐揚げなどは食べることができるのであった。 ドクトルカメさんの住んでいたブルックラインの町にも30人ぐらいがはいるTakesimaというのれんを掲げたすし店があったが、そのほとんどの客が地元のアメリカ人だったのには驚き桃の木山椒の木であった。それも、あのアメリカ人が上手に箸を使って、醤油をつけて食べていたのは二重の驚きであった。 感心して「ここの店は本になんか載っていないけど、すごくはやってますねー」と板前さんに聞くと、「うちは宣伝なんかする必要はないね」というそっけない返事であった。 一般に日本料理はタイやイタリアンレストランにくらべてやはり高く、ここのすしやでも安いもので10〜15ドルほどしていた。これにサービス料15%、税金5%を足せば安くはない。あまり、高いものは食べないアメリカ人がすしやを訪れるというのは、健康食であるというのがひとつのトレンドになっていたのを通り越して、もう、すしはアメリカ人の食生活の一部になってしまっているのかもしれない。 この分でいくと、21世紀にはアメリカ人のことだから、すしはハンバーガーと同じ“アメリカ開国以来あるアメリカの郷土料理”だと信じられるようになるに違いない。その兆しに、ドクトルカメさんがあるホテルのすし屋で板前さんに話しかけたところ、日本語が通じなかった経験があった。おそらく中国人ではないかと思われた。そりゃそうだろう、すしさえ握れるならなにも人件費が高く、英語のしゃべれない日本人を雇う必要はない。 最初は日本人と見分けがつかない東洋人が雇われるが、そのうち、メキシコ人やブラックアメリカンがすしを握るようになり、「Hei, Rasshai」と声をかけ、ロングマンの英英辞典にはMaguroやUni、Kappaが解説附きでのるようになるのに違いない。 ■Osakaエクスプレスで食べたUdonとTeriyaki… ドクトルカメさんがボストンに着いたのは冬も真っ最中の2月であった。 車もなく、日本料理店も知らないドクトルカメさんはアメリカへ着いてから2週間ほどいつもハンバーガーやチキン、インスタントラーメンを食べていてそろそろ醤油味の日本食が恋しくなっていた。 そんなある夜、ケンブリッジ通りを5分ほど登ったところにOsakaエクスプレス、Teriyakiと名付けたレストランを見つけた。これはしめたぞと思い、中へ入ってみると、スタッフは東洋人ではあるが明らかに日本人ではなく、言葉からベトナム系の人と思われた。まぎらわしい看板をかけるなと腹が立ったがこのさい仕方がない、外は凍えるほど寒いし、おなかもすいている。 メニューのなかにUdonと書いてあるのがあったので早速それを頼むと、出てきたのは、どんぶりではなく、細長いコーラを入れるような容器であり、中には醤油とはちょっと違った味付けのスープが入っており、たしかにUdonがはいっていた。 ちょっと、最初はためらったが、なんせ、久しぶりのうどんである。 窓際に座って、あー、ボストンにきてしまったんだなー、日本のみんなは今頃、どうしているんだろうなどとひとり感傷にふけりながらありがたく食べたのであった。 しかし、その後、他のアメリカ人の注文するのを見ていると、どうも野菜と鳥肉を鉄板の上でジュージューといためて白いごはんの上にかけたものが人気があり、たしかにおいしそうであった。 そこで、ドクトルカメさんもまねしてそれを注文して食べたところ、たしかにてりやきの味がしておいしく、さらには白いごはんが食べられるのが何ともうれしかった。 アメリカでTeriyakiとは“てりやき風味鳥野菜いため、ライス添え”のことであって、日本のとはちょっと違うが、Tryしてみられるのをドクトルカメさんはお薦めする。 しかし、逆に考えてみれば、これが”てりやき”と信じたアメリカ人が日本へ来ててりやきを注文すると“ほんとに、これ、てりやき?”と思うかもしれない。 |