クリスマスの思い出


■ジングルベルの12月

 季節は12月である。肌寒い日々が続き、降る雨にもシャーベットのようなものが混じるようになると家路への足もしらずしらずのうちに早足になる。ただ、夕暮れが早くなるので街のあかりが夏のころより目にほんのりとやさしく映える。そのやさしさにつられてついデパートなぞに一歩足を踏みいれると、おなじみのクリスマスソングが聞こえてくる。
 年々おなじみの音楽にすぎないのだが、どういうわけか妙にこころが浮き立ち、妻にプレゼントのひとつでもと心に魔がさす。

 こどものころから繰り返しジングルベルを聞かされているからであろうか、はっきりいってぼくはこの曲が好きである。しかし、大の大人があんな子供のためのメロディーなどとばかにされそうで、人目をはばかり心のなかを見透かされないようにしている。

■サンタの苦労
 つい、数年前までクリスマスの子供たちへのプレゼントを買うため、イブの夜の街を悲愴な顔をして走り回っていた。いつもぎりぎりまで買いにいかないのであわてなければならなかった。ハローマックやジャスコのおもちゃ売り場をセーラームーンの魔法の杖まだ残っていますか?と探し回ってようやく最後の一個を買い求めていた。

 子供たちにきづかれないように車のなかに置いておいて、12時を過ぎて十分寝静まってからそっと抜き足さし足で枕もとにプレゼントを置いた。

 さすがに去年は妻が『中学生にもなるのにまだサンタさんがトナカイに乗ってプレゼントを持ってきてくれるなどという有難いお話しを子供たちが信じているといかなことにも都合が悪い。そろそろほんとのところを話したら』といった。それもそうだと思い、子供たちに、『いや、じつはサンタさんではなくておとうさんがプレゼントを買ってきて枕元に置いているんだよ』といった。
 子供たちは『どうりで何だかおかしいと思った』といった。中学生になるまでサンタクロースを半分信じていたのである。恥をかかせなくてよかった。

 ぼくはべつにキリスト教徒でもそのシンパでもなく、宗教に関してはまったく節操がない一般日本人と同じである。
べつにクリスマスイブにお祈りするわけでもなく、教会へいくでもない。夕飯に鶏の手羽先を妻が焼く。アルミホイールで巻いてあるところを持って口に頬ばり、シャトレかラピニオンのケーキ、たまに妻の機嫌のいい年は手作りのチヨコレートケーキを16分の1カットご馳走になるだけでほかになにかするわけでもない。それでもクリスマスイブというだけでは何となくハッピーな気分になれる。自分でも馬鹿じゃないかと思う。

■クリスマスを売る店
 ドイツのロマンチック街道といわれる道すがらにローテンブルクという小さな街がある。
中世の城郭都市がそのまま残っていて、日本人にはとりわけ人気が高い。

 この街にはいろいろと魅力的なお店が並んでいるがとりわけ感動的なのがクリスマス屋さんである。
その名のとおり、この店の中は1年中クリスマスなのである。
その名前はケーテウォルトファルト。

店の中に一歩足を踏みいれるとそのあとはただただクリスマスメルヘンの世界である。
中はほんのり薄暗く、中央には高さ5mはあろうかとおもわれる真っ白なクリスマスツリー。昔、絵本で読んだようなヨーロッパの石づくりの街を思い起こさせる小さな家が立ち並び、その中には数々のキャンドル、ツリーを飾る金、銀、赤、青などのミラーボール、素晴しいデザインのツリーを飾る布のテープ、天使やトナカイ、スター、サンタなどの飾りものなどありとあらゆるクリスマスグッズがそれは見事に並んでいる。
天井には星が輝き、家々の軒先には雪が降りつもっている。
その飾り方の見事さには思わずため息がでる。

 機会があったらぜひ、といってもドイツまでいけるはずがないじゃないかというかたには最近ぼくはその支店が東京は高輪にあるのを偶然見つけました。
スケールは小さいがここもなかなかのものです。一見の価値あり。