引っ越し顛末記---その2

 
■ああ、いきちがい…
 ミセス ウイリアムスは”お昼ごろならいけるかもしれない。もう一度電話を”というので、倉庫の前で昼まで待って電話をいれた。そうするとまたハズバンドがでて、”いまはワイフは出かけていない”という。

いったいこれは何なんだ。半日つぶして収穫ゼロだ。ドクトルカメさんはしかたがない、今日はあきらめようと思った。アンラッキーだった。縁がなかったと思うことにしよう。

 トラックをUホールに返してアパートに帰った。あのときトラックで事故を起こして死ななかっただけでもよかったと思うことにした。間違えば「留学生、ボストンで交通事故で死亡」と書かれた日本の新聞を天国で目にすることになっていたはずだ。

風呂に入り、やけビールを飲んだ。しかし、このままほっておいてはまずいと思い直し、夜8時ごろ、再び電話をしてみた。”ハロー、ミセス...” ”ミスター カメイ 私は1時ごろそちらへいって2時間待ったがあなたはこなかった...” どうも電話での意思疎通がうまくいかなかったようだ。謝って、もう一度、立ち会ってもらうことを約束して電話を切った。

■『ただ』のハードルは高かった…
 1週間後、ようやくMGHの倉庫でミセスウイリアムスに会うことができた。50代ぐらいの、小柄で人のよさそうなおばさんだった。倉庫の鍵は彼女が持っているのだった。

ドアを開けてもらい中へはいった。唖然とした。がらくたがいっぱいだった。ぼろぼろの家具が山のように積み上げてあるのであった。いやいや文句はいうまい。なにしろただだ。

 まず、ベッドを4台選ばなければならない。マットはどれもしみがついていて、まさか寝小便の跡ではあるまいなと疑えば心穏やかではないが、まあ、シーツをひけばなんとかごまかせるだろう。ベッド台は金属製でかなり重い。バネの満足なものはないがまあ、寝られないことはない。

 結局、傘がとれそうな電気スタンド、15年ぐらい前の映るかどうかわからない白黒のテレビ(映らなくてもともと)、足がぐらぐらなテーブル(釘を打って補強すれば何とかなる)、皮のシートが破れた椅子2脚(座布団を置くことにしよう)も一緒にトラックに積んだ。

あまりのみすぼらしさにため息を通り越して笑えてくるが、ここはなんとか我慢しなければなるまい。ミセスウイリアムスは手伝ってくれるわけでなくただ微笑んでドアのそばに立ってだまって見ているだけであった。真冬なのに汗びっしょりになる。
ミセスウイリアムスに日本から持ってきた扇子をあげてお礼を言って別れる。

 さあ、これから元のアパートに寄ってまだ開けてない段ボール箱も一緒にトラックに積んでブルックラインのアパートにいかなくちゃ。
ガタゴトとトラックを動かし以前に調べておいた道筋をゆっくり走る。一方通行の多いボストンの道だが、念入りに調べておいたおかげで順調にMGHの前のアパートにたどりついた。

 しかし、アパートは坂の途中の曲がり角にあり、そこを曲がる時に道路際の残雪に乗り上げてしまった。ギアを前進、後進に入れ替えて脱出しようとしたが後輪が空回りして動かない。どうしようと思っているうちに近くにいた工事の人やコインランドリーに洗濯に来ていた人たちが気軽に車を押して脱出させてくれた。こんな見ず知らずの外国人にと思うと感謝感激であった。

 この後は最後の道行だ。後ろが見えず車線変更するときは冷や汗ものだったが、ボストンの中心部を通ってブルックラインまで約30分、なんとかたどりついたのであった。

アパートの裏手にトラックを乗り付け、いよいよ最後の作業だ。
大きなマットを両手で抱え下を引きずらないように運び始めるたが意外と重く、途中で一息いれ、終ごろには右足の甲にマットを乗せ、摺足でエレベターの前までようやく運んだ。
これをマットで4回、さらに9階にいってからも4回繰り返さなければならないかと思うと目の前が真っ白になった。ベッド台はさらに重かった。しかし、何といってもただなんだと自分に言い聞かせた。

いくらエレベーターがあるといってもこれは重労働だった。だれか友達に頼んで手伝ってもらうんだったと悟ったときはもう遅かった。
最後のテレビを運び上げたときはまさにダウン寸前だった。どうしておれはアメリカまで来てこんなことをしなけりゃならないんだ!!と思った。